子供の時に自分が好きなゲームは買ってもらえましたか?
私の場合はどうも親とのコミュニケーション不足だったのか、それとも親と私のセンスが違いすぎていたのか、欲しいと思っていても買って貰えませんでした。
欲しいものはコレジャナイ
誕生日プレゼントなどはきちんと貰っていたのですが、なんというか「コレジャナイ」というものばかりでした。
ゲームよりもずっと高いラジコンなんかを買ってもらっても、一度も欲しいと口にしたことがない、興味がないプレゼントに心がときめかなかったのです。
幼いながらも、人間はちゃんと口にしないと気持ちが伝わらないんだなと学習しました。
同時に面倒くさいとも思ってしまったので、幼少時の人格形成としてはどうだったのでしょうね。
お小遣いが増えたり、アルバイトを始めたりといった頃には欲しいものは自分で買うようになりました。
ゲームも年々新しくなっていくので、結局離れられず。
携帯ゲーム機がコミュニケーションツール化してくると、大義名分ができるものですから熱中してプレイするわけで。
気がついたらこんな大人になっていたとさ。
スマホというゲーム機
手放せなくなっていった原因の一つに、スマホの普及もあると思っています。
私の認識だとゲームというのはある程度「プレイする時間」というものを意識しなくてはならないものでした。
折角プレイしたデータの記録などもありますし、この位でやめようと頭の片隅には常にあったわけです。
ところがスマホのアプリゲームによってお話が変わります。
ありとあらゆる隙間の時間に入り込んでくるようになったではありませんか!
画面に触れていなくても自動でデータのやり取りをおこなう、そんなタイプの放置ゲーム。
作業しつつ、チラっと状況を確認したりして明らかに放置していない。
ゲーム内でのほかのプレイヤーとのやり取りも容易になった気がします。
ちょっとしたSNSだと思えば、ゲームしないでチャットしているのが楽しい、などという気持ちもわからなくはありません。
私もイケメンではないので(フツメンのはず)、現実ではうつむき気味なのですが、ゲーム内では堂々とお話できたりします。
そうです、現実よりも他者とのコミュニケーションに壁を感じないのですよね。
やっぱりゲームが止められない
年齢を重ねるというよりは、日々に追われて自分からアクションを起こさないと新しい知り合いは増えない、わかってます。
現実で頑張るよりゲーム内のほうが楽なんだよなぁ。
純粋にゲームを楽しんでいる気持ちは、もちろん変わらずに持っています。
しかしながら、曖昧なつながりにちょっとした安らぎを感じているのも確かで、それがゲームをやめられない理由になっているのかもしれませんね。